昭和57年4月16日 朝の御理解
明渡 孝
御理解第7節『天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある』
昨日、前夜祭の始まる前でしたけれど、信徒会長とまあ話したことですが。「あれだけの米が、次の大祭までにはなくなるから大したことじゃあるね」と言うた。百二・三十俵ぐらいお供えしてあるですね。今半俵( ? )ですから。まあ、大したことということと同時に、ありがたいことだという。合楽は、いよいよ繁盛に繁盛のおかげを受けておるという印である。
例えば大祭に、前夜祭、そしてご大祭当日、お三方だけでもどうですか、六十台以上でしょうね。こちらのお広前のも全部御霊様から、私の、あの礼拝堂の方から、お三方。大したことなんですよね。それにやはり、あれだけの、いつも、今年は、毎年言うとりませんけれど、あれだけたくさんの大盛りが出ます。まあ大したことだというより他に言葉がないんですけれども。
●④だんだんおかげを頂いて、椛目で人が助かるようになって、合楽におかげを頂き、合楽に出てまいりましたら、ほんとに、日まさり月まさり年まさりにおかげを頂いてまいっております。それがはっきりとこう、数字の上にも現われてくる。そういうおかげが、どういうところから頂けるようになったかと。
これは、私の願いなのですけれども、ほんとに、天地のように生きたい。ね。ためには、ね、いうならば天地ほど偉大、大きいということはないでしょう。ね。天地のような心と、天地のような大きな心を頂きたい。
内容を申しますと、私は、常に「大河の流れのように」ということを思います。ね。その大きい河というのは、表面は穏やかにこう流れております。けれども、その川底は、渦巻くようにして流れておるということであります。どんな場合であっても、表面は大河の流れのように生きたい、という、また真実そういう願いを持たなければダメだと思うですね。●④
みんなが大きなおかげを頂きたい、大きなおかげを頂きたい、と願っておっても、ね。んなら、「自分の心をいよいよ豊かにも大きゅうにもしていこう」という精進はいとうのです。嫌うのです。これでは大きゅうなれませんね。
私は、今日いつも、今日のここんところの「天地日月の心になること肝要」ということを、まあよく細かにいつも説くのですけれども、今日は私は、今言う、ね、「天地日月の心になること」まず天地のような心を目指さなきゃならないこと。内容としてはだから、「大河の流れのような心の状態」を目指さなければいけないということ。
もうちょっとしたことで心配になる、ちょっとしたことで腹が立つ、もうちょっとしたことが気になって、晩眠れんごとある、といったようなことではね、なるほど、心の底には、渦を巻くようなことがあっておっても、表面は大河の流れるように、優々とした心の状態を目指すということです。そして、その精進をすることです。ね。
それをまた、ならいつも説きますように「天の心とは、地の心とは、日月の心とは」というふうに、いうなら申しますのは、おかげを頂くというのじゃなくて、大きな神様が下さろうとするおかげを頂くということなんです。ね。
いわゆる三十年前に、私の、大坪家の紋所というのは、梅鉢の紋でした。天神様の紋に、こう輪が入っているのです。ね。神様がその輪を取れと。ね、これに枠があったらね、大きくなれない。ね。枠とはどういうようなことか。
私は、先だって十三日会に、久保山さんが発表されたようにです、結局我を取るということ。我を取るということは、自分というものをいよいよ空しゅうするということ。久保山さんが言うておられましたよね。もう七・八年にもなられましょうか、本気でここに打ち込まれるようになったのは、毎日日参してみえます。「今日もどうぞ成り行きを尊ばして下さい。大切にさして下さい」というのが、もう毎日のお届けです。それを実感を持ってお届けされるんです。
同じことがどうして実感、これは、総代さん方がこうやってあの、毎日お届けなさるのがね、時々虚ろなものにただ聞こえることがあるんですね。ですから、あの願いを日々行じておったら、日々さらな願い、お取次ぎができると思うです。久保山さんの場合には、もう本気で日々、成り行きを大切にすること、尊ぶこと、それをまあひっくるめて言うと、「もう今日もいよいよ土の心で」というようなことになりますが、なかなかもってその土の心になるということが難しい。
ここは一言言うておかねば、というようなことに、いわば実験しよるとそういうところに行き当たる。ね。そん時に、どうしてこんなに自分の心の中に、いわゆる土の心で治まらんのだろうかと思うてみると、そこには自分の我があった。右にしたがいいのに、左にしたがいいのに、まあ例えば子供達の姿を見ておっても思うわけ。だからそれを言わずにはおれないわけ。
けれども、それは自分の我である。いよいよ自分を空しゅうするということに精進さして頂くところから、ほんとに、次には、言わんでおって良かった、言う以上におかげを頂いていく事実が生まれてくるんです。ね。いわゆる実験実証なんです。それがいよいよ自分のものになるということもです、ならこれが、いよいよ今度は、豊かに大きくなることのためには、その問題もまた大きくなってくるわけです。
それは自分の心が、限りない豊かな、ね、いわゆる黙って治められる。それは、ね、底の方には渦巻くようであっても表面は、大河の流れのように生きていけれるのです。そういうね、ひとつ願いを持っていかなければ、大きなおかげにはなってこないと思う。ね。
ただ「どうぞ大きな御用がしたい。そんためには、大きなおかげを頂かして下さい」いかにもこう筋が通ったようであるけれども、ね。これはやっぱり我情我欲ですよ。どうぞ大きくおかげを頂かして下さい。そして、大きなお役に使うて下さいちゅうのは。ね。
ほんとに自分が豊かになり、大きくなって、ね、大きなおかげを頂けたら、ね、もうそれこそ、もうほんとに、いうならお役に立たずにはおれなくなってくる、というものでなからければならんと思う。
今日は、いつも天地日月の心を、のその、まあ小さい神経を使う意味においての天地の心である、限りなく美しゅうなるとかね、もうほんとに受けて受けて受け抜く心、どんなことであってもという、些細な神経を使わなければ。
だから、大きな信心とは、ある意味合いで小さい神経もまた、使わして頂かなければ、どういう些細なところから、いうならおかげが漏るやら分かりません。だから、小さい神経を使うと同時に、なら大きな願い、天地のように生きたい。ね。大河の流れのような生き方をしたい。そういう願いを込めての、いうならば天地の心である。ね。
今日はだから、大きい意味でのところを今日は聞いて頂いた。大きゅうおかげを頂きたいなら。大きな受け物を作らなきゃならん。ね。それには我情があってはならない、我欲があってはならない。合楽理念の一言でも、本気で行じておると、「ははあ、これは我のせいだな、これは自分がここで空しゅうなからなければ」という、ほんとにそのことに取り組めれる。
ただ我情を取りなさい、我欲を取りなさい、というだけじゃなかなか取れませんけれども、それこそ久保山さんのことじゃないけれども、いつの間にか我情が取れて我欲が取れて、とこう言っておられるようにですね、いわゆる、実験実証しながら、これはまた限りがないことですから、いわゆる大きなということになってくると、また大きなおかげということになってくると、これは生涯懸けてここに取り組んで行く、ひとつおかげとして、その修行がね、ありがたいもの楽しいものになってくるおかげを頂かなきゃならんと思うですね。どうぞ。